大判例

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高松高等裁判所 昭和60年(ネ)140号 判決

控訴人 萩原キミ子

右訴訟代理人弁護士 堀和幸

同 大石和昭

同 桂秀次郎

同 本田兆司

被控訴人 森永乳業株式会社

右代表者代表取締役 大野晃

右訴訟代理人弁護士 中山晴久

同 久保恭孝

被控訴人 国

右代表者法務大臣 林田悠紀夫

右指定代理人 佐藤公美

〈ほか六名〉

主文

本件控訴を棄却する。

控訴費用は控訴人の負担とする。

事実

第一申立て

一  控訴人

1  原判決を取り消す。

2  被控訴人らは、控訴人に対し、各自、金一億一五〇〇万円及び内金一億円に対する昭和五二年三月二三日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審とも、被控訴人らの負担とする。

4  仮執行宣言

二  被控訴人ら

主文同旨

第二主張

次に付加訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決二枚目表末行の「これ」を「各内金一億円」と改める。

2  原判決三枚目裏七行目の「徳島工場」の次に「(以下「徳島工場」という。)」を、同九行目の「判明した」の次に「(右西日本一帯を中心に昭和三〇年六月ごろ発生した奇病で、同年八月二三日、その原因が本件ミルクを飲用したことによるものであることが判明した砒素中毒症を、以下「本件砒素中毒症」という。)」を各加える。

3  原判決六枚目表四行目の「一二」を「一一」と改める。

4  原判決三三枚目表九行目の「4(二)」の次に「(1)」を加える。

5  原判決三三枚目裏三行目の「(三)」を「(二)(2)」に改める。

6  原判決三六枚目表四行目の「七」を「四」に改める。

7  原判決六六枚目裏末行から同六八枚目表三行目まで(「被控訴人森永の短期消滅時効の抗弁」の部分)を次のとおり改める。

「(一) 不法行為による損害賠償請求権の消滅時効の起算点は、民法七二四条により、「被害者又はその法定代理人が、損害及び加害者を知りたる時」と定められているが、右の「知りたる時」とは、単純な憶測や推定では足りないけれども、一般人であれば、損害賠償請求権の行使が可能な程度に、違法な行為による損害発生の事実と損害賠償請求の相手方とを現実に認識すれば足りるのであって、損害賠償請求の訴を提起し得るとの確信を有するに至る程度に知ることは必要でなく、また、必ずしも、損害の程度または数額を具体的に知る必要はない。

ところで、美鈴は、昭和三〇年九月一四日、徳大病院において砒素中毒症であると診断され、昭和三二年三月一〇日死亡した。また、控訴人も、昭和三〇年一〇月末日ころ、同病院において砒素中毒症であると診断された。しかも、本件砒素中毒症発生後、日ならずして、それが、被控訴人森永の製造販売した本件ミルクに起因することが判明し、岡山県衛生部よりそのことが発表され、同年八月中には新聞報道等によって、広く知られていた。

そうすると、控訴人は、控訴人の損害のうち、美鈴の死亡にかかる部分については、同人が死亡した昭和三二年三月一〇日、控訴人にかかる部分については、控訴人が砒素中毒症であると診断された昭和三〇年一〇月末日には、損害及び加害者を知ったことになるはずである。

したがって、その日から、それぞれ三年後である昭和三五年三月一〇日及び昭和三三年一〇月末日の経過により、控訴人の被控訴人森永に対する損害賠償請求権は、時効により消滅した。

(二) 仮に、右の主張が認められないとしても、控訴人は、昭和三九年四月四日、被控訴人森永の製造販売した本件ミルクを飲用したことにより、美鈴及び控訴人が砒素中毒症に罹患したと確信し、前記のとおり、美鈴及び控訴人が砒素中毒症と診断されたこと、及び新聞報道等の資料に基づいて、徳島簡易裁判所に対し、被控訴人森永を被告として、美鈴と控訴人に生じた損害の賠償を求める訴(以下「前訴」という。)を提起した。しかも、控訴人は一審判決によって、その請求が棄却されたのに、二審、三審と争い、その上、再審の申立てまでしている。

したがって、控訴人が、前訴を提起した昭和三九年四月四日までに、損害及び加害者を知ったことは明らかであるから、右の日から三年後である昭和四二年四月四日の経過により、控訴人の前記損害賠償請求権は、時効により消滅した。

(三) 仮に、右主張が認められないとしても、被控訴人森永の徳島工場における乳児用調整粉乳の製造及びこれに要する原材料の購入等の業務に従事していた同工場の工場長及び製造課長は、第二リン酸ソーダを安定剤として、原料牛乳に混和して乳児用調整粉乳を製造するに当り、成分規格の明らかな薬剤を使用し、また、そうでない場合には厳密な化学的検査を行うべき注意義務があるのに、これを怠り、工業用第二リン酸ソーダとして取引されている薬剤を、科学的検査をしないで、これを安定剤として原料牛乳に混和して乳児用調整粉乳を製造したところ、右薬剤が人体に害を与える程度の分量の砒素を含有するものであったため、右乳児用調整粉乳を飲用した乳幼児を砒素中毒によって死亡させ、あるいは砒素中毒症に罹患させたとして、業務上過失致死傷罪で、徳島地方裁判所に起訴され(以下右起訴に係る業務上過失致死傷事件を「刑事事件」という。)、同裁判所は、昭和三八年一〇月二五日、検査官主張の第二リン酸ソーダ受領後の注意義務は存しないとして、前記被告人両名に無罪の言渡をした。しかし、その控訴審である高松高等裁判所は、昭和四一年三月三一日、右の第一審判決を破棄して、事件を徳島地方裁判所に差し戻した(なお、右控訴審の判決に対し、被告人両名は上告したが、最高裁判所は、昭和四四年二月二七日、上告を棄却した。)。その理由の要旨は、(1)工業用第二リン酸ソーダは、局方品や試薬品のように製造業者自身によって、製造の規格が保証されたものではないから、取引過程で第二リン酸ソーダでないものが、同名のもとに売られる可能性がある。したがって、万が一にも不純物、有毒物が混入してくるかも知れないという不安感が存在する以上、食品製造業者たる被控訴人森永の従業員としては、成分規格の明らかなものを指定して注文する注意義務があり、また、そのような指定をせずに、単に第二リン酸ソーダといって注文するのであれば、同じ店に同じように注文する場合でも、厳密な化学検査をすべき注意義務がある。(2)徳島工場の従業員らは、前後三回に亘り、規格品を指定しないで発注し、納入薬剤を使用する前、右薬剤が第二リン酸ソーダであるかどうかを確かめる化学的検査をしていなかったとしている。

右刑事事件の控訴審判決は、本件中毒事件について、被控訴人森永の従業員に過失があり、その不法行為が使用者である同被控訴人の事業の執行についてなされたものであることを判示したものであり、しかも、そのことは新聞等で一般に報道されたのであるから、当時、控訴人も、その事実を知悉したものと推認される。

したがって、右の時点で、一般人であれば、損害賠償請求権を行使することが可能な程度に、すなわち、違法な行為による損害発生の事実と損害賠償の相手方とを現実に認識できる程度に、事実に対する認識があったといえるから、控訴人は、右の時点で、損害及び加害者を知ったものというべきであって、右判決言渡日の昭和四一年三月三一日から三年を経過した昭和四四年三月三一日の経過により、控訴人の前記損害賠償請求権は、時効消滅した。

(四) 仮に、右主張が認められないとしても、前記高松高等裁判所の刑事事件の破棄差戻しの判決及びこれを支持する上告審の判決が言い渡された後の昭和四四年一〇月一九日、大阪大学丸山教授らによって、本件砒素中毒症の被災児について行った追跡調査に基づく、いわゆる「一四年目の訪問」(丸山報告)が新聞報道された。この報道によって、本件砒素中毒症に罹患した被害者の現在の症状が、あたかも本件砒素中毒の後遺症であるかのように伝えられたため、世間一般の関心を呼び、各地で検診、調査が実施され、その結果が次々と公表された(国の委託により岡山県が医師会の協力のもとに組織した岡山県粉乳砒素中毒調査委員会、福井県医師会、京都府森永砒素ミルク中毒追跡調査委員会、大阪大学医学部有志による森永砒素ミルク中毒症追跡調査会等)。そして、右検診、調査の結果は、新聞等で広く報道されるとともに、控訴人が会員として加入していた守る会も、これを機関紙に掲載して会員に周知したのであるから、控訴人もこれを知悉していたことは疑いがない。

そこで、守る会は、被災者らの現在の症状が、本件ミルクを飲用したことに、起因する砒素中毒症であるという被害の実体が明らかになったとして、被控訴人森永は加害企業としての責任を全うすべきであるとの前提のもとに、昭和四七年八月二〇日、恒久対策案を作成し、その実現を目的として、会員のうちから代表者を選び、西日本の各ブロックごとに、被控訴人らに対する損害賠償請求訴訟を提起する準備をすすめ、その第一波として、昭和四八年四月一〇日、被控訴人らの責任を追及するための損害賠償請求の民事訴訟を大阪地方裁判所に提起した(以下右訴訟を「大阪民訴」という。)。そして、右訴訟の原告は、この訴訟の意義と位置づけを充分認識している者で、立証上の配慮から、勝訴見込みが確実と考えられる資料の有無の点を中心におき、協力医療陣や保健婦の意見を参考にして選定したといわれているが、他の各ブロックにおいても同様であったことは、容易に推認し得るところである。

そして、大阪民訴の訴提起当時、控訴人は、美鈴の死亡と控訴人の砒素中毒罹患の責任を追及し、損害賠償を求める意思を有し、守る会が同年七月訴提起を予定していた四国ブロックでの第二波民事訴訟の原告の一人に選定されていた。そのため、控訴人は、同年九月二四日に行われた徳島県での弁護団会議にも出席した(もっとも、控訴人は、結果的には、四国ブロックの被害者らが、高松地方裁判所に提起した民事訴訟(以下「高松民訴」という。)の原告になっていないが、それは、前記「一四年目の訪問」(丸山報告)後各地で実施された検診の対象となっていないことによるものではない。)。

したがって、大阪民訴が提起された昭和四八年四月一〇日、又は、遅くとも、控訴人が徳島県での前記弁護団会議に出席した同年九月二四日には、控訴人は、損害及び加害者を知ったものというべきであり、これから三年を経過した昭和五一年四月一〇日、又は、遅くとも、同年九月二四日の経過により、控訴人の前記損害賠償請求権は、時効により消滅した。

(五) そこで、被控訴人森永は、本訴において右各時効を援用する。」

8  原判決六八枚目裏末行から同六九枚目裏七行目まで(「被控訴人国の短期消滅時効の抗弁」の部分)を、次のとおり改める。

「(一) 短期消滅時効の起算点につき、民法七二四条にいう「損害及び加害者を知った時」とは、被害者が、不法行為によって損害の発生した事実を知り、加害者に対する損害賠償請求権の行使が事実上可能な状況のもとに、その可能な程度に、これを知った時を意味するものというべきである。

ところで、美鈴は昭和三〇年九月一四日、控訴人は同年一〇月末日ごろ、それぞれ徳大病院において、砒素中毒症であると診断され、美鈴が死亡したのは昭和三二年三月一〇日である。もっとも、美鈴は昭和三一年七月徳大病院で、控訴人は同年一一月徳島市民病院でそれぞれ精密検診を受け、いずれも治癒したものと判定されたが、控訴人は、その後昭和五〇年まで慢性胃腸炎の治療を受け、右症状は砒素中毒症の後遺症であると認識していた。他方、本件砒素中毒症については、昭和三〇年八月二四日以降大々的な報道がなされていた。

控訴人は、本訴において、被控訴人国の毒劇物及び食品添加物取締上の過失を主張しているのであるが、これらの取締りを含む保健衛生を行う権限が厚生省に属していることは、厚生省設置法上明らかであり、被控訴人国が、毒劇法及び食品衛生法の解釈を誤ることなく規制しておれば、本件砒素中毒症の発生を防止し得たということ、及び、被控訴人国が加害者であることの可能性については、控訴人が特別の調査を行わなくても、当時の報道によって容易に知り得たはずである。

以上の事情を考慮すると、控訴人が、当時被控訴人国の違法行為、過失及び美鈴と控訴人の後遺症との相当因果関係を認識する客観的可能性は十分にあったのであるから、控訴人は、その蒙った損害のうち、美鈴にかかる部分については昭和三二年三月一〇日、控訴人にかかる部分については昭和三〇年一〇月末日ごろ、それぞれ、損害及び加害者を知ったものというべきである。したがって、それらの日からそれぞれ三年後である昭和三五年三月一〇日及び昭和三三年一〇月末日の経過により、控訴人の被控訴人国に対する損害賠償請求権は、時効により消滅した。

(二) 仮に、右主張が認められないとしても、丸山報告発表後、守る会が結成され、本件砒素中毒症が本件ミルクに起因することを認識していた控訴人は、守る会に加入し、会合、集会、現地交渉等様々な活動に参加し、情報の提供を受けていた。そして、守る会のために、昭和四七年九月五日、六五名からなる森永ミルク中毒被害者弁護団が結成され、守る会では、同年一二月三日の全国集会において、被控訴人森永の製品の不買運動及び被控訴人森永のみならず、被控訴人国についても、食品添加物などの規制を怠り、被害を放置したとして、その責任を追及する民事訴訟の提起を決議した。右訴訟で、被控訴人国をも被告とすることにしたのは、右弁護団において、その故意、過失、違法性、因果関係等につき、法律的諸問題を詳細に検討した結果、法廷の場において被控訴人国の責任を追及することが可能であるとの結論に達したことによるものである。そこで、守る会は、西日本の各ブロックごとに、不法行為に基づく損害賠償請求訴訟を提起するため準備を進め、控訴人の属していた守る会徳島県本部でも、四国ブロックでの被控訴人国を共同被告とする訴訟を昭和四八年七月に提起する準備を進めたが、控訴人は、右訴訟の原告となることが内定していた。そして、同年四月一〇日大阪地方裁判所に、被害者又はその遺族三六名が原告となり、その当時一二三名に増えた弁護団所属の弁護士を訴訟代理人とし、被控訴人森永、同国を共同被告として大阪民訴を提起した。このことは、即日控訴人の居住する地域の各新聞に、企業と国の責任を問う訴訟であると報道され、その翌日の朝日新聞には、特に、控訴人のことについて、「萩原さんは砒素中毒症で亡くなった被害児の母親で、事件当時赤ん坊と一緒にミルクを飲みその後遺症で十八年間寝たり起きたりの生活……。亡くなった被害児の親が第一次訴訟で原告になった例はあるが、本人自身の後遺症で原告になるのは例がない。」と報じた。そして、これに次いで、同年八月二四日、八名が原告となり、岡山地方裁判所に、更に、同年一一月二四日、一一名が原告となり、高松地方裁判所に同様の訴訟(高松民訴)を提起した(右の岡山地方裁判所に提起した訴訟を、以下「岡山民訴」という。)。更に控訴人は、高松民訴の提起前である同年九月二四日、徳島市内において開かれた四国ブロックでの訴訟提起に向けての弁護団会議(打合せ会)に出席した。

以上のとおり、守る会では、弁護団との検討の結果、被控訴人国をも被告としたブロックごとの訴訟提起を決定し、その第一波訴訟として大阪民訴が提起されたものであり、その当時控訴人は、四国ブロックでの訴訟提起の際は、原告の一人となることが内定していたものであり、そうでないとしても、控訴人が徳島市内で開かれた弁護団会議に出席した際、右訴訟提起の際は、原告の一人となることが内定していたのであるから、大阪民訴提起日である昭和四八年四月一〇日、又は、遅くとも、右弁護団会議が開かれた同年九月二四日には、単なる疑いや推測の域を超え、具体的資料に基づいて、被控訴人国に対する損害賠償請求権の行使が事実上可能であるとの主観的認識を有し、かつ、右請求権行使の客観的可能性があったものというべきである。

したがって、右昭和四八年四月一〇日、または、遅くとも同年九月二四日には、控訴人は、損害及び加害者を知ったものであるから、その日から、それぞれ三年後である昭和五一年四月一〇日、又は、遅くとも、同年九月二四日の経過により、控訴人の被控訴人国に対する損害賠償請求権は時効により消滅した。

(三) そこで、被控訴人国は、本訴において、右各時効を援用する。」

9  原判決七〇枚目裏三行目から七二枚目裏五行目まで(「被控訴人森永の短期消滅時効の抗弁に対する認否、反論」の部分)を次のとおり改める。

「1(一) 抗弁1(一)の事実中、美鈴及び控訴人が被控訴人森永主張のとおり砒素中毒症であると診断され、美鈴が同被控訴人主張の日に死亡したこと、本件砒素中毒症が同被控訴人の製造販売した本件ミルクに起因する旨の新聞報道がなされ、そのことが広く知られたことは認めるが、その余は争う。

不法行為に基づく損害賠償請求権につき三年の期間経過により、短期消滅時効が完成するためには、被害者又はその法定代理人が、損害及び加害者を知ったことが必要である。そして、損害を知ったといえるためには、加害者の行為が違法であること、及び、それによって損害が発生したことの両者を知る必要があるし、加害行為と損害とは、因果関係を有するものでなければならない。また、加害者を知るとは、損害賠償請求の相手方となる者を知ったことを意味する。更に、右の時点の判断にあたっては、被害者の主観的認識と損害賠償請求権行使の客観的可能性とを総合評価すべきである。

ところで、本件は、歴史上類を見ない稀有の食品公害事件であって、企業内の秘密裡になされる製造過程の全貌や、砒素の人体障害・生命侵害の医学的解明及びその予測、更にはその法的責任の在り方という困難な要素を有する事件である。

美鈴及び控訴人は前記のとおり徳大病院において砒素中毒症と診断されたが、昭和三〇年一一月八日には、西沢委員会による治癒判定基準が定められ、昭和三一年に行われた全国一斉検診では、美鈴及び控訴人をはじめ殆んどすべての被害者が治癒ないし異常なしとの判定を受けたのであるから、控訴人が、美鈴についてはその死亡時に、控訴人については砒素中毒症と診断された時に損害及び加害者を知ったといえないことは明らかである。

(二) 抗弁1(二)の事実中、控訴人が被控訴人森永主張の日に、同被控訴人を被告として、前訴を提起したことは認めるが、その余は争う。

前記のとおり、短期消滅時効が完成するためには、被害者又はその法定代理人が損害及び加害者を知ったことが必要である。そして、右の時点の判断にあたっては、被害者の主観的認識と損害賠償請求権行使の客観的可能性を総合評価すべきである。控訴人が、前訴を提起した当時の客観的状況からすれば、右の主観的認識及び客観的可能性はともに存在しなかったことが明らかである。

すなわち、(1)前訴は、控訴人が、被控訴人森永を被告として、金一〇万円の損害賠償を求めて提起したものであるが、それは、控訴人単独の、しかも本人訴訟であって、治療の時期、薬価などの明細は、その請求原因として、特定されておらず、美鈴の死亡という重大な損害も除外され、請求額も金一〇万円と極めて低い。そのため、二審では、主張自体失当であり、かつ、美鈴及び控訴人の中毒症は全治していたとして請求が排斥せられた。したがって、当時の控訴人の主観的認識は、具体的資料に基づかない疑いあるいは推測にすぎず、この程度の認識にもとずいて提起された前訴は短期消滅時効の起算点を考えるについて無視すべきである。(2)前記のとおり美鈴および控訴人は昭和三〇年に砒素中毒症と診断されたが、昭和三一年に関係各府県で行われた一斉検診の結果、いずれも治癒ないし異常なしと診断され、同時に一斉検診を受けた者で後遺症の診断を受けた者はいなかった。また、昭和三八年一〇月二五日には徳島地方裁判所において、刑事事件の無罪判決が言い渡された。このように、前訴提起当時は、損害の発生(美鈴および控訴人の砒素中毒症の罹患)、及び、被控訴人森永による加害行為が、ともに公的機関(関係各府県及び裁判所)によって否定されていたのであるから、損害賠償請求権行使の客観的可能性はなかったといわなければならない。

したがって、控訴人が、前訴提起時に損害及び加害者を知ったといえないことは明らかである。

(三) 抗弁1(三)の主張は争う。

現行刑訴法における控訴審の構造は、事後審であって、控訴審にける審判の対象は、第一次的には、原判決を不当とする控訴理由の有無を調査して、原判決の当否を審査するのにすぎない。

ところで、刑事々件の控訴審で、高松高等裁判所は、成分規格の指定発注義務及び化学検査義務について、一審判決が、右注意義務が存しないとしたことに対して、右注意義務が存すると判断したものであって、いわば、食品製造業者の注意義務を一般的に認めたのにすぎず、食品製造業に従事する被告人に対し、右注意義務が存するとして、具体的に右注意義務を懈怠した行為が存するものと認定判断したわけではなく、その点については、更に、差戻審で審理判断すべきであるとして、破棄差戻判決を言い渡したのである。

したがって、高松高等裁判所が一審判決を破棄し、そのことが報道されたからといって、一般人たる控訴人において、ただちに、不法行為の内容を知り得たとはとうてい言えない(控訴人は少くとも、破棄差戻後の刑事事件の有罪判決があった昭和四八年一一月二八日まで、損害及び加害者を知らなかったというべきである。)。しかも、前記(一)記載のとおり、美鈴及び控訴人は、昭和三一年に行われた全国一斉検診の結果、治癒ないし異常なしとの判定を受け、医学的に個別的因果関係を証するすべを全く有していなかったのであるから、被控訴人森永の右主張は失当である。

(四) 抗弁1(四)の主張は争う。

本件砒素ミルク中毒事件は、前記(一)記載のとおり多数の飲用者に対し被害を与えたわが国最初の食品公害事件であり、また、砒素中毒という人体の全身に何らかの被害を与えるという特異な事件であった。そして、美鈴及び控訴人は、昭和三一年に行われた前記全国一斉検診の結果、治癒判定が下されたのである。

また、前記(二)記載のとおり、昭和三八年一〇月二五日には徳島地方裁判所において刑事事件の無罪判決が言渡されその後、刑事事件の控訴審である高松高等裁判所において破棄差戻しの判決が言い渡されたが、前記(三)記載のとおり、その後の刑事裁判の帰趨も、未だ不明な状態であったから、これによって、控訴人が、被控訴人森永の不法行為の内容を知り得たものとはとうてい言い難い。

しかも、「一四年目の訪問」(丸山報告)後、各地で行われた検診は、乳幼時期に本件ミルクを飲用した生存被害者を対象とするものであり、死亡した美鈴及び成人被害者の控訴人は、その対象となっていなかったから、右検診によって、事実上損害賠償請求が可能となるような新らたな資料が発見されたわけではなく、控訴人については、前記治癒判定により、その後遺症が否定された状態が、そのまま継続していた(控訴人が、再び砒素ミルク後遺症として、まがりなりにも診断されたのは、昭和五〇年三月以降のことであった。)。

そして、大阪民訴をはじめ、他の地域の訴訟において、いわゆる代表訴訟(被害者全員が訴訟を提起するのではなく、立証の難易等を考慮して、被害者の代表を選び、その者だけが訴訟を提起し、全被害者の救済運動の役割を荷わせる。)の形態がとられたが、それは、前記のとおり、本件砒素ミルク中毒事件が特異な事件であり、医学界においても根強く存した砒素と障害との具体的因果関係を否定してきた状況の中で、被害者の医学的資料の獲得が困難であったことによるものである。大阪民訴当時においても、美鈴については、右の資料は絶無に近く、控訴人についても、美鈴と大差がなかった。そして、そのことが、大阪民訴後の高松民訴において、控訴人が原告から外された一因であると考えられる。

したがって、大阪民訴提起当時ないしその時点と何ら具体的事情を異にしない控訴人の弁護団会議出席の日当時、控訴人が、具体的資料に基づいて損害賠償請求権を行使することが、事実上可能であったとはいえないから、被控訴人森永の右主張は失当である。」

10  原判決七四枚目表三行目から同裏六行目まで(「被控訴人国の短期消滅時効の抗弁に対する認否、反論」の部分)を次のとおり改める。

「1(一) 抗弁1(一)の事実中、美鈴及び控訴人が砒素中毒症であると診断された日、及び、美鈴が死亡した日が被控訴人国主張のとおりであることは認めるが、その余は争う。

同被控訴人は、美鈴にかかる部分についてはその死亡した日、控訴人にかかる部分については控訴人が砒素中毒症であると診断された日がそれぞれ消滅時効の起算点となる旨主張するが、その当時は、西沢委員会による診断基準が発表され、これに基づく精密検査の結果、美鈴、控訴人ともに治癒されたものと判定されていたのであり、また、本件について、被控訴人国の責任を追及する場合、同被控訴人の毒劇法、食品衛生法上の権限、義務や、同被控訴人が被控訴人森永と一体となって砒素中毒被害者を圧殺してきた歴史を法的に理解することが不可欠であるところ、これらについては、事実の把握と高度の法的判断が必要であった。そして、控訴人が、当時の新聞報道によって知り得るのは、せいぜい被控訴人国の行為と症状との自然的因果関係にすぎなかった。

したがって、同被控訴人の主張する時点では、いまだ損害を知ったものとは言えないから、同被控訴人の主張は失当である。

(二) 抗弁1(二)の主張は争う。

右主張に対する控訴人の反論は、被控訴人森永の抗弁1(四)に対する反論と同様である。」

11  原判決八〇枚目表二行目の「のうち、(ア)ないし」を「(ア)のうち確認書が作成されたことは認める(被控訴人国は、更に、昭和四八年一一月二八日言渡された刑事判決が確定したことも認める。)が、その余は争う。(イ)及び」と改める。

12  原判決八〇枚目裏六行目の「は認める。」を「の認否(被控訴人森永)控訴人及び原審相被告萩原義明が、その主張の日時に本件訴えを提起したことは認めるが、その余は争う。(被控訴人国)認める。」と改め、同一一行目の「結果的に見れば」から原判決八一枚目表初行の「であって、」までを削る。

第三証拠《省略》

理由

第一  請求原因1(当事者)のうち(一)、(二)は控訴人と被控訴人森永との間で、(一)、(三)は控訴人と被控訴人国との間で、いずれも争いがない。また、同2(本件砒素中毒症の発生)は、当事者間で争いがない。

そこで、本件訴訟の経緯に鑑み、以下の順序にしたがい判断する。

第二  本件砒素中毒症発生後の経過について

(以下に認定する事実中には、全部又は一部の当事者間に争いのない事実も含まれる。煩を避けるため、これらを逐一摘示しないが、その内容は、請求原因、抗弁及び再抗弁に対する各認否欄記載のとおりである。)

1  本件砒素中毒症発生後の被控訴人らの対応

《証拠省略》を総合すると、以下の事実が認められ、この認識に反する証拠はない。

(一)  被控訴人森永の対応

(1) 昭和三〇年八月二四日に、岡山県衛生部により、砒素中毒症の原因が本件ミルクにあることが発表されると、被控訴人森永は徳島工場における本件ミルクの製造、出荷を停止し、市場に出回ったミルクの回収を開始した。そして、翌二五日から報道機関を通じて、本件砒素中毒症の原因が、同被控訴人の徳島工場におけるドライミルク製造工程中に使用した安定剤について、厳格な検査を実施していなかったことによるものである旨記載し、謝罪を兼ねて本件ミルクの飲用中止を求める広告を行った。更に、当面の措置として、(ア)治療費の実費負担、(イ)入院費及び付添費の負担、(ウ)見舞金として死亡者に金一〇万円、入院者に金一万円、通院者に金五〇〇〇円を支払うことを決定し、社員を関係府県に派遣した。

(2) その一方で、独自に原因究明活動を開始し、同月二八日に至り、徳島工場が乳質安定剤として使用するため業者から納入させていた第二リン酸ソーダの一部が、これとは異る薬剤であって、この中に砒素が混入していたことを突き止め、その旨を厚生省に報告した。

(二)  被控訴人国の対応

(1) 一方、厚生省は、同月二四日、岡山県衛生部から、本件ミルクの飲用者が砒素中毒症に罹患していること、及び、本件ミルクから砒素が検出されたことの報告を受け、確認のため自ら調査を開始する傍ら、直ちに関係各府県に砒素中毒の原因は本件ミルクであることを通知するとともに本件ミルクの販売中止を指示し、報道機関を通じて一般消費者に本件ミルクを飲用しないよう勧告を行った。

(2) こうして、本件砒素中毒症の原因が判明した後、同年九月一日、厚生省公衆衛生局長は、関係各府県に対し、(ア)患者、死者の確認、決定、(イ)患者、死者の名簿作成、(ウ)患者の治療対策、(エ)確認患者、死者の報告に関する通知(同日衛発第五一八号)を行った。このうち、患者、死者の確認、決定に関する時効は次のようなものであった。

(ア) かかる中毒は、過去にも事例がなく、文献等にも充分な記載がないので、軽症患者については個々の症状により、他の疾病との鑑別が困難なものについて慎重かつ綿密に確認を実施すること。

(イ) 届出あるいは通報された患者、死者の中には他の疾病が混入する恐れがあるので、直ちに患者、死者と決定せず、必ず個別調査、医師訪問、検診等による疫学的調査に基づき確認すること。

(ウ) 症状、経過等患者、死者の症状学的調査においては、従来よく発生する細菌性食中毒とは相当異なっているので、専門的な医学的知識を必要とする点からいっても、衛生当局あるいは委託した医師が必ず関与すること。

(エ) 摂食状況調査においては、砒素における慢性中毒であるため、ある一定期間原因粉乳を飲用しなければ発病しないものであるし、かつ、人工、混合栄養の差により潜伏期も当然異なるものであるから、必要により生後より発病までの飲用した粉乳の量、種類およびその期間を調査し、空缶があればその缶マークにより種類を確認すること。

(オ) 死亡者及び現在までに治癒した過去の患者あるいは既に回復して症状のほとんどない者については、特に詳細かつ慎重に調査すること。

なお、検案した医師あるいは診療医師の検案書、診療録等をも充分参考とすること。

(カ) なお、疫学調査に当っては、診療医師の協力を得なければならぬ点が多いので、医師会を通じて事前に充分連絡し協力を得る措置を講ずること。

なお、衛生当局においても患者、死者の確認が困難な症例がある場合は、管内の専門医、権威者等による確認決定のための特別の委員会あるいは調査班等を必要により県に、あるいは保健所に設置し、これに諮ることも一つの手段と考えられること。

(3) これにより、徳島県においても徳島県医師会長大久保九平、徳島大学医学部教授北村義男らを中心とする粉乳中毒対策協議会が結成され、同協議会が策定した診療基準に基づく検診が行われることとなった。

2  西沢委員会による診断基準とこれによる精密検診

《証拠省略》を総合すると、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

(一)  1(二)(2)に認定した経過により、各地で検診が行われることとなった。しかし、本件砒素中毒症は、患者の症状が極めて特殊なもので、従来その例を見ないものであったので、関係各府県において患者の認定、予後の判定が困難な事情にあった。そこで厚生省公衆衛生局長は、昭和三〇年一〇月六日、砒素化合物を経口的に摂取した場合の砒素中毒患者の診断基準及び治療指針等の作成方を日本医師会に依頼した。

(二)  これに対し、日本医師会長は、日本医学会長を通じ、日本小児科学会長にその作成方を依頼していたところ、当時の医学界において、最高権威であるとされていた大阪大学教授西沢義人、岡山大学教授浜本英次、徳島大学教授北村義男、兵庫医科大学教授平田義穂、京都府立医科大学教授中村恒男、奈良医科大学教授吉田邦男を委員とする委員会(西沢委員会)により「砒素化合物を経口的に摂取した場合の砒素中毒者の診断基準並びに治療指針等の作成について」と題する報告書(以下「西沢委員会の診断基準等」ともいう。)が作成され、日本医師会長から昭和三〇年一一月二日厚生省公衆衛生局長宛、右報告書を添付した回答がなされた。

厚生省公衆衛生局長は、昭和三〇年一一月八日、患者の認定、予後の判定等の参考とさせるため、各都道府県あてこれを送付した。なお、右報告書は、後遺症について、「現段階における所見(例眼底所見、肝臓障害等)が後遺症となりうるかは未だ断定しえない。」とし、治療指針の作成の項に、「今回の中毒患者については患者は夫々適切と思われる治療により殆ど全部治癒している。」としていた。

(三)  そして、厚生省公衆衛生局長は、西沢委員会の報告書や、後記の五人委員会の意見書において後遺症について調査研究をする必要があるとされていたこともあって、昭和三一年三月二六日、関係各府県に対し、一斉精密検診を行うよう通知(衛発第一八三号)した。

右通知の内容は次のとおりであった。

(森永粉乳中毒患者の精密検診について)

標記中毒患者の予後並びに後遺症については、かねて重大な関心をもっているところであるが、現在なお相当数の患者がある模様である。ついては、これらの患者が精密検診を受けるようにして、その実態を把握することは、その予後ならびに後遺症の究明に関連して必要があると思われるので、関係都道府県は、左記により措置され遺憾のないように願いたい。

① 精密検診の対象となる者

file_2.jpg通院入院等により現在治療中の患者

file_3.jpg回復者であって、予後後遺症等に不安を感じている者

② 右の者に対する精密検診を行うため、当分の間、関係都道府県は、当該都道府県医師会と十分協議したうえ、各科を具備し、かつ検査設備の完備した適当な医療機関をあっせんする。

③ 本中毒の患者若しくは回復者である旨の証明が必要である場合は、保健所において適宜その証明を行うようにする。

④ 検診の結果、本中毒に基因すると考えられる患者については、できるだけ右②の医療機関の治療を受けるよう指導する。

⑤ 本精密検診に要する費用及び④による直接治療費は、森永乳業株式会社が負担する。

⑥ 後遺症と診断され、又はその疑がある者が発見された場合には速やかに厚生省に報告する。

(四)  そして、右の通知に従い、関係各府県において被害者の精密検診(以下「全国一斉検診」という。)が実施され、昭和三四年末までには、被害者全員に対して治癒判定が下され、後遺症の診断を受けたものは、いなかった。

しかし、被害者らの中には、右の精密検診がおざなりであるとして不満を持つ者もあった。

3  補償問題に関する交渉

《証拠省略》を総合すると以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

(一)  本件砒素中毒症が公表されて後、各地で被害者らの組織である被災者同盟が結成され、その全国組織である全国協議会と被控訴人森永との間で、補償問題に関する交渉が行われた。その結果、昭和三〇年一〇月三日、通院費、付添費等については合意が成立し、同被控訴人がこれを負担することとなったものの、補償金額については交渉が難航した(なお、補償金額に関する被害者の要求は各地で若干異なっていたものの、死亡者につき金二五〇万円、重症、中症、軽症患者につきそれぞれ金一〇〇万円、金七〇万円、金三〇万円というのが代表的な要求であった。)。

(二)  このため、交渉当事者双方から、厚生省に対し仲介の申出があり、同省もこれを受けて学識経験者に対し意見書の作成を依頼することとした。これがいわゆる五人委員会であり、そのメンバーは、内海丁三、小山武夫、田辺繁子、正木亮、山崎佐の五名であった。

五人委員会は、発足後、被害者及び診察に当たった医師らに対する調査等を行い、昭和三〇年一二月一五日、意見書を提出した。そして、右意見書において、(ア)被控訴人森永の法律上の責任についての判断は裁判所にゆだねるべきものであるから、あくまで道義的な責任を前提として補償金額を決定する(ただし、同報告書が引用している災害補償事例と比較すると、死者に対する補償額は、当時としては他の事例と比べてもそれほど低額ではなかったことがうかがわれる。)、(イ)後遺症の心配はあまり考えられないとの前提に立った上、既払分を含め、死者に対して金二五万円、患者に対し金一万円の補償金を支払うよう勧告を行った。

(三)  そこで、被控訴人森永は右の基準に基づく補償の申入れを行ったが、被害者側はこれを拒否し、新らたに死者につき金五〇万円、重症、中症、軽症、微症者にそれぞれ金二〇万円、金一〇万円、金一万円、金五〇〇〇円の補償を要求した。被控訴人森永はこれを拒否するなど、意見書発表の後も、しばらく対立が続いたが、昭和三一年四月九日、意見書の基準により補償を行うことで合意を見るに至り、同年五月二日、被控訴人森永と全国協議会、被災者同盟との間で正式に合意が成立した。

右合意の内容の主要なものは、次のとおりであった。

(1) 被控訴人森永は五人委員会の意見書の基準による補償を行う。

(2) 全国協議会および各被災者同盟は、合意によりその目的を達したものとして解散する。

(3) 同被控訴人は、被害者に対する精密検診が速やかに行われるよう協力する。そして、検診の結果治療が必要であるとされた者については治療費を負担する。また、治療費支払事務の遂行のため関係各地に世話人を置く。

(4) 全国協議会は、同年五月一日以降、同被控訴人が行っていた入院患者に対する看護料及び通院諸費用の支払を停止することを了承する。

(5) 同被控訴人は、多くの赤ちゃんの健康な成長を期する目的のため、育児栄養に関する諸研究を助成する公益財団法人を設立するよう目下努力中である。

(四)  そして、全国協議会と被災者同盟は、同日、被控訴人森永とともに事件について円満解決を見たとの共同声明を発表し、同月八日には解散声明を行った。一方、同被控訴人からは合意に基づく補償金の支払が行われた。

(五)  こうして、本件砒素中毒症をめぐる被害者らと被控訴人森永間の紛争は一応の決着が見られるに至った。被害者らの活動も、岡山県下の被害者らが被控訴人森永を相手方として損害賠償請求の訴えを提起する等の動きはあったものの、昭和三八年一〇月二五日に徳島地方裁判所において刑事事件の無罪判決が言い渡されたこと等もあって、昭和三九年四月一日、訴えが取り下げられた。このほかには、同じく岡山県下の被害児の親が結成した、岡山県森永ミルク中毒のこどもを守る会が活動を続け、昭和三七年八月二七日にはこれが全国組織(守る会)となって、被控訴人森永に対し、集団検診の実施等を申し入れるなどしていたが、大きな動きは見られなかった。

(六)  なお、本件砒素中毒症発表後、本件砒素中毒症について何らかの意味においても、被控訴人国の責任によるものであるとの報道は一切なされておらず、また、その責任を追及するような動きもなかった。

4  「一四年目の訪問」からひかり協会設立に至る経過

《証拠省略》を総合すると、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

(一)  前記3に認定のとおり、本件砒素中毒症をめぐる被害者らと被控訴人森永間の紛争は、一応決着したものと考えられていたところ、昭和四四年一〇月一八日、大阪大学教授丸山博が、日本公衆衛生学会において、「一四年前の森永MF砒素ミルク中毒患者はその後どうなっているか(一四年目の訪問)」と題する報告(丸山報告)を行った。同教授は、右報告の中で、大阪府下において保健婦らの協力を得て行った被害児六七名の実態調査の内容を紹介し、被害児らのうちには、疲れやすいなどの身体症状、てんかん、脳性マヒなどの中枢神経系の症状が多くみられ(脳性神経症状と思われる症状を呈しており、かつ、社会生活上なんらかの支障をきたしていると考えられるもの七例、外観から観察した場合、身体上なんらかの一般的でない症状があると思われるが、社会生活上にはさほど支障がないと考えられるもの二五例、なんらかの不健康な徴候を訴えていると考えられるもの一八例)、被害児らが現在もなお有形、無形の障害に苦しめられていること、そして、これらの障害が砒素中毒症の後遺症である可能性もあることを指摘して強い衝撃と反響を呼んだ。

(二)  そして、右報告を契機として、各地で地方自治体、医師会等により被害児らに対する再検診、再調査が始められた。

この結果は、後遺症ありとするものがある反面、後遺症は認められないとするものもあり(例えば、京都大学医学部の昭和四七年八月一四日付報告(日本衛生学雑誌二七巻四号別冊所収)及び日本小児科学会森永砒素ミルク中毒調査小委員会の昭和四八年五月二六日付報告書(右小委員会の報告書は、各地における再検診、再調査を総合検討したうえ、森永砒素ミルク飲用者の間に、知能障害、けいれん、脳波異常などの中枢神経障害、極度の易疲労性並びに特有の皮膚病変のほか身体諸臓器の複雑多岐にわたる症状が認められ、現在の医学水準において、右症状は、森永砒素ミルク中毒後遺症と考えるのが妥当であるとしている。)は後遺症の存在を認めているが、福井県医師会報告は「後遺症ありと断定するには至らなかった。」とし、また、岡山県粉乳砒素調査委員会は、「(被害児らが)特に憂慮すべき経過をたどっているとはいえない。」としている。)、統一的な見解を得るには至らなかったが、後遺症問題について関心を高める役割を果たした。また、前記京都大学医学部はその報告の中で、西沢委員会の診断基準等は、急性症状の消退をもって砒素中毒症が治癒したとする判断にたっており、問題があるとの批判を加えた。

そして、これらの報告のうち、一部は後記守る会の機関紙により、会員に周知された。

(三)  一方、被害者らの活動も、右のような医学会等における動きや、昭和四一年三月三一日に刑事事件の控訴審である高松高等裁判所が、徳島地方裁判所の無罪判決を破棄し、事件を徳島地方裁判所へ差し戻す判決(右高松高等裁判所の判決は、被控訴人森永の徳島工場の従業員が、食品製造業に従事する者としては、乳児用粉乳ミルクの安定剤として、第二リン酸ソーダを注文する場合には、成分規格の明らかなものを指定して注文すべき注意義務があり、また、そのような指定をしないで注文し、薬剤を納入した場合には、厳格な化学的検査をすべき注意義務があるのに、成分規格の明らかな薬剤を指定しないで注文し、かつ、納入された薬剤が第二リン酸ソーダであるかどうかを確かめる化学的検査をしなかった過失がある旨認定判断し、かかる注意義務はないとした無罪判決を破棄し、差し戻したものである。)を言い渡し、その報道がなされたこと等に触発されて、再び活発となっていった。

こうして、各地で守る会が結成され、昭和四四年一一月三〇日には、第一回全国総会が開催され、全国組織として被控訴人森永に被害者救済措置を要求する一方、独自の被害実態調査等の活動を開始した。また、本件砒素中毒症の発生およびその後の措置について被控訴人国の対応等にも問題があったとして、同被控訴人の責任も追及し始めた。

そして、昭和四五年一二月一二日から守る会と被控訴人森永との交渉が開始された(なお、両者の交渉には双方の代表者による交渉すなわち本部交渉のほか、現地交渉と呼ばれる交渉も行われていた。後者は、各地において同被控訴人の駐在員と各府県の守る会代表者らによって行われる交渉で、この交渉により、検診、治療代の支払等が合意された例もあった。)。

(四)  しかし、右の交渉において、守る会側が、被控訴人森永に対し、法的責任(法律上の責任、過失、因果関係の存在を含む。)を認めた上で救済事業を行うよう要求したのに対し、同被控訴人側が法的責任(法律上の責任)は認めないとの立場を取り続けた(もっとも、同被控訴人が法律上の責任を認めるような声明を出し、これが「加害責任」を認めたものとして報道されたことはあった。)ため交渉は難航した。

この間、被控訴人森永側からは、昭和四七年一月一九日に恒久措置案の呈示がなされ、また、同年一一月四日には金一五億円の補償の申入れが行われた。しかし、守る会側は、これらが道義的責任に基づくものとされており、しかもその内容が被害者を切り捨てるものだとして反発し、同被控訴人の申し入れを拒否する一方、守る会としての救済事業案を取りまとめ、同年八月二〇日恒久対策案を発表した。右対策案は、その「Aはじめに」の項で、被控訴人らが、昭和三一年に行った非科学的な検診によって治癒、後遺症なしと断定し、じ来守る会を始めとする各地の被害者の訴えにも耳を傾けることなく、その責任と必要な措置を放棄して来た。そのために、被害者たちの症状は、何ら継続的に観察、研究されず、必要な治療を施されることなく放置されてきた旨、その「森永の責任」の項で、被控訴人森永は、食品製造業者として調整粉乳を製造するに際し、原料乳に乳質安定剤として第二リン酸ソーダを使用していたが、当然試薬一級品を使用すべきであったのに、工業用第二リン酸ソーダを検査もせずに使用し、その不注意により砒素入り調整粉乳を製造した。また、事件発生当時にとった被控訴人森永の措置は、すべて自己の企業利益を守る立場に立ってなされたものであり、被控訴人国らと一体となって被害者を圧殺した旨、その「国及び地方自治体の責任」の項で、本件は、日本軽金属清水工場において製成された産業廃棄物が、工業用第二リン酸ソーダという名のもとに、被控訴人森永において、その製造にかかる調整粉乳に混入させたのであるが、厚生省は右有害物を毒物として取締る立場にあり、かつ、取締りうる機会があったのにかかわらずこれを怠り、また、乳製品の添加物について、適正な取締りをしなかった。また、この中毒事件が人類史上に前例のない乳幼児の砒素中毒であるから、厚生省は、その後の経過を観察し、充分な健康管理をするなど、万全の措置を講じて被害者の完全救済に努めるべき立場にあったのにかかわらず、被控訴人森永の利益を擁護するため、公正と権威を装った非科学的な診断基準、治療指針等を適用して、患者の切り捨て、治療の打切りを進める一方、補償問題についても、乳製品協会の資金によって運営された五人委員会に委嘱し、後遺症なしとの判断のもとに極めて低廉な額の補償を提示し、後遺症なしとの判定に対して疑いを持った被害者に対しても、昭和三一年に、極めてずさんな非科学的精密検診を行っただけで、本事件を政治的、行政的に葬り去り、以後一七年にわたり、被害者を圧殺しつづけてきた旨被控訴人らの法律上の責任について具体的に指摘し、これを前提とした上で、現に様々な障害に苦しんでいる被害児らの救済に主眼を置き、(ア)被害児らの健康管理、追跡調査、(イ)治療、(ウ)被害児の家族に対する介護料の支払や生活補償、(エ)年金の支払、(オ)被害児の保護育成のための措置、(カ)砒素ミルク中毒症に関する研究の助成や研究施設の設置を提唱するものであったが、その中には死者に対する補償や生存者の過去の損害に対する補償も含まれていた。

(五)  このように意見の対立が続く中で、守る会は、昭和四七年一二月三日の第二回全国集会において、局面を打開してその要求を実現するため、被控訴人森永の製品の不買運動を開始し、更に、被控訴人らを相手方とする損害賠償請求訴訟を提起することを決議した。そして、守る会の要請によって結成された弁護団は、近畿六府県及び四国三県の弁護士六五名からなり、右弁護団は、守る会と協議の上、①訴訟は、守る会の恒久対策案実現を目的とし、被控訴人らの法的責任(法律上の責任)を明らかにする。②守る会全体の代表訴訟とする。すなわち、死者の遺族を含む全被害者から代表者を選び、原告団とする。本件砒素中毒症発生以来二〇年を経過する昭和五〇年八月以前に判決をとり、原告以外の被害者にその効果を及ぼすよう訴訟進行を可能な限り迅速にする。したがって、最悪の場合には守る会の全員訴訟という事態もあり得る。③第一次第一波訴訟は大阪地方裁判所に、同第二波訴訟は岡山地方裁判所に、同第三波訴訟は高松地方裁判所に、それぞれ、提起するが、続いて、第二次、第三次訴訟を提起して行くことなどを取り決めた。これに基づき、昭和四八年四月一〇日には大阪地方裁判所(大阪民訴)に、同年八月二四日には岡山地方裁判所(岡山民訴)に、同年一一月二四日には高松地方裁判所(高松民訴)に、それぞれ守る会会員の一部が原告となった損害賠償請求訴訟が提起された(なお、この原告の中には、死亡者の遺族も含まれていた。)。そして、大阪民訴は、守る会の会員三六名が原告となり、被控訴人らを被告として、被控訴人森永については乳児用調整粉乳を製造する際、乳質安定剤とし第二リン酸ソーダを使用するに当り、それが成分規格等が明らかでない化学的合成品であったから不純物が混入していて人体に危害が生ずるかも知れないことは当然予見し得たにもかかわらず、特別な調査もせずに使用した過失によりその製品を飲用した原告らが砒素化合物による中毒症状を発生せしめたものであるとし、被控訴人国については、毒劇法、食品衛生法の取締上の責任のほか、各府県に対し、数か月間の経過観察で被災児の治癒判定を行うことを指導し、昭和三一年三月二六日付通牒により、後遺症について精密検診を実施するよう指示した際も、杜撰な検診が行われるのを容認し、その結果すべての被災児が治癒したとして、そのまま放置して被害を拡大させたという被害者放置の責任があるとし、原告らが砒素中毒症により蒙った慰謝料として一人当り金一〇〇〇万円の支払を求めたものであるが、これに対し、被控訴人らは過失、因果関係の存在を全面的に否定する姿勢をとった(もっとも、被控訴人森永は、後に、過失の点につき、予見可能性はなかったが結果回避義務違反があったことは認めるという答弁をするようになった。)。

なお、同年一一月二八日には、徳島地方裁判所において、刑事事件の有罪判決が言い渡されている。

(六)  一方、守る会と被控訴人森永との交渉は、厚生省が仲介を申し出、守る会、被控訴人森永、同国の三者による会談(以下「三者会談」という。)が提唱され、以後、交渉は、主として、三者会談の場で行われることとなった。

そして、昭和四八年一〇月一二日から三者会談が開始され、守る会が提唱した恒久対策案を尊重することを基本線として、被害児の救済事業実現に向けての話合いが行われた結果、同年一二月二三日、右三者の間で確認書が調印されるに至った。

右確認書の内容は次のとおりである。

(1) 森永は森永ミルク中毒事件について、企業の責任を全面的に認め心から謝罪するとともに、今後、被害者救済のために一切の義務を負担することを確約する。

(2) 森永は被害者の対策について、守る会の提唱する恒久対策案を尊重し、すべての対策について同案に基づいて設置される救済対策委員会の判断並びに決定に従うことを確約する。

(3) 森永は前二項の立場に立って救済対策委員会の指示を忠実に実行するとともに同委員会が必要とする費用の一切を負担することを確約する。

(4) 厚生省は被害者対策について守る会の提唱する恒久対策案の実現のために積極的に援助し、かつ、救済対策委員会が行政上の措置を依頼したときは、これに協力することを確約する。

(5) この確認書は、被害者救済のための第一歩であって、今後、厚生省、守る会及び森永は、それぞれの立場と責任において、被害者救済のために協力することを確認し、問題が全面的に解決するまで三者会談を継続し、恒久対策案実現のために努力することを確約する。なお、このための必要な措置として、三者会談の中に、救済対策推進委員会を設置する。

(七)  そして、昭和四九年四月二五日、確認書において合意された対策の実施主体としてひかり協会が設立された。また、これにより、守る会側が提起していた訴訟も、大阪民訴の第一五回口頭弁論期日に、被控訴人らの訴訟代理人は確認書の内容を全部承認していること、当時訴えを提起していた原告らはひかり協会の救済事業の対象者であること、被控訴人森永がひかり協会に対して行う費用負担には制限を設けないこと等について確認が行われた上で、大阪民訴、岡山民訴及び高松民訴は、いずれも、昭和四九年五月二四日、訴えが取り下げられた。

なお、ひかり協会の理事には、学識経験者や守る会の幹部らが就任した。

5  ひかり協会の事業と死亡者補償問題

《証拠省略》を総合すると、以下の事実が認められ、この認定に反する証拠はない。

(一)  ひかり協会は、その寄附行為により、森永ミルク中毒事件に起因する被害の救済のための事業及びこれに関連する調査、研究、その他の事業を行い、被害者らの福祉の増進を図り、もって公衆衛生及び社会福祉の向上に資することを目的とし(寄附行為三条)、このため、(ア)被害者の継続的健康管理に関する事業、(イ)被害者の治療、養護に関する事業、(ウ)被害者等の生活保障又は援護に関する事業、(エ)被害者の教育及び保護育成に関する事業、(オ)被害者の健康、生活、職業等の相談判定及び指導に関する事業、(カ)以上の事業に関連する調査研究に関する事業、(キ)その他三条の目的を達成するために必要な事業を行う(寄附行為四条)こととされていた。

(二)  右の規定からも明らかなとおり、ひかり協会の事業の内容は、当時成人を迎えようとしていた被害児と、その家族に対する救済事業がほとんどであり、死亡者に対する補償や、過去に生じた損害に対する補償は、事業内容として明記されていない。

これは、ひかり協会が実際に行っている事業内容から見ても同様であって、試みに昭和五〇年度における同協会の事業内容を見ると、同協会の事業は、砒素中毒患者の認定作業と、認定された者に対する健康管理のための検診、治療費の支払、介護手当の支払、障害の程度に応じた生活保障手当の支払、奨学金の支払、施設入所者に対する扶助等が中心であって、死亡者に対する事業としては、協会設立後死亡した者に対する香典の支払などが予定されているだけで、過去の損害に対する補償については何ら定められていなかった。また、ひかり協会や守る会の幹部らも、再三にわたって、ひかり協会の事業目的は生存している被害児らに対する救済にあり、損害賠償の実施にあるものではない旨説明していた。

(三)  もっとも、守る会は、遺族補償についての検討を行うため、昭和四九年一一月一〇日死亡者問題小委員会を発足させ、同小委員会は、昭和五〇年一月一九日、ひかり協会の事業として、被害者の遺族に対し、(ア)年金の給付(ただし、その金額は、生存する最重症患者に対する生活保障金の七〇パーセントとし、死者が二〇歳に達するはずであった日から、受給権者の死亡又は死者が五四歳に達すべき日まで支給する。)、(イ)葬祭料として金三〇万円、墓石料等として金三〇万円ないし四〇万円の支払を行うべきであるとの試案を発表した。

そして、守る会もこれを受けて、同年一二月一四日、ひかり協会の事業として、ひかり協会設立後被害者が死亡した場合、香華料を支払い、かつ、遺族で生活保障が必要な者に対して生活保障を行うこと、また、同協会設立前に死亡した被害者の遺族に対しても必要に応じて生活保障を行うべきことを提言し、これらの事業がひかり協会の事業に加えられることになった。

(四)  このようなひかり協会の活動並びに守る会の態度に対し、死亡した被害者の遺族らの中には不満を持つ者も少なくなかった。そして、右遺族らの一部には、守る会に対して死者の補償を納得のいく形で行うよう要求する者や、ひかり協会の事業では不十分であるとして、改めて損害賠償請求訴訟を提起することを提案し、参加の希望の右無等につきアンケート調査を行う者が現われるなどした。

これに対して、守る会、ひかり協会は、ひかり協会に対する補償要求は、その方針に逆らい統制を乱すとして反発し、ひかり協会の活動趣旨を改めて強調するとともに、右のような活動をしないよう要求した。そして、被控訴人森永が、たまたま、昭和五一年五月に、単独で訴えを提起した被害者の遺族との間で和解をした例もあったが、この際、同被控訴人から支払われた和解金は金一九〇〇万円ともいわれており、この遺族は、この和解が原因で、守る会の統制を乱すものとして、除名決議を受けた。

(五)  こうして、遺族補償、過去の損害賠償問題はひかり協会、守る会内部でも解決を見られないまま今日に至っている。

6  美鈴及び控訴人について

《証拠省略》を総合すると、以下の事実が認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

(一)  美鈴及び控訴人の症状の経過は、それぞれ請求原因3(二)、(三)各記載のとおりであった。そして、美鈴は昭和三〇年九月一四日に、控訴人は同年一〇月末日までに、徳大病院において砒素中毒症であると診断された(もっとも、控訴人については、同病院のカルテに「砒素ミルク中毒症の疑いにより諸検査を行ったが、中毒症であると診断しうる検査結果は得られなかった。」との記載もある。)が、翌昭和三一年には、全国一斉検診が行われ、徳島県砒素中毒審査委員会の検診を受けたところ、同年一二月一五日、美鈴、控訴人ともに、異常なしと判定された。

そして、美鈴は昭和三二年三月一〇日死亡したが、その死亡の原因は、急性肺炎(その直後の原因は感冒である。)と診断された。また、控訴人はその後も体の不調を訴えていたが、ほぼ継続的に治療を受けたのは慢性胃腸炎であり、ほかには、昭和三八年に腹部膨満、夜間の視力障碍で、昭和四六年に脳波異常で医師の治療を受けたが、いずれも、治療にあたった医師は、右症状が砒素中毒によるものであるとは診断していない。控訴人があらためて砒素中毒症の後遺症であると診断されたのは、昭和五〇年三月二八日のことであった。

(二)  一方、昭和三〇年九月には徳島県下で被災者同盟が結成され、控訴人も、これに参加した。そして、美鈴及び控訴人は被控訴人森永からも砒素中毒症患者であると認められ、同被控訴人から同年一二月分までの治療費及び見舞金一万円の支払を受けた。

その後、前記3に認定のとおり、昭和三一年五月八日徳島県被災者同盟も解散し、被害者らの活動は途絶え、被控訴人森永から美鈴及び控訴人に対する治療費の支払も停止された。

(三)  ところが、控訴人は、昭和三九年四月四日、被控訴人森永を相手方として徳島池田簡易裁判所に損害賠償請求訴訟を提起した。右訴訟(前訴)の内容は、必ずしも明確ではないが、被控訴人森永が製造した本件ミルクを飲用したことによって控訴人が扶養していた美鈴及び控訴人が砒素中毒症に罹患し、かつ、美鈴が砒素中毒症により死亡し、控訴人も未だ治癒していないとして、被控訴人森永が治療費の支払を打ち切った以後の右両名の治療代、薬代金一〇万円の損害賠償を求めるというもので、その前提として同被控訴人の従業員が、飲用した者が砒素中毒症に罹患するような毒物を混入したミルクを製造販売したとの不法行為を主張したものと解される。

しかし、第一審の徳島池田簡易裁判所は、昭和三九年八月一二日、請求を棄却した。更に、控訴審の徳島地方裁判所も、昭和四〇年三月二九日、美鈴及び控訴人が砒素中毒症であったことの立証がないとして控訴を棄却し、上告審の高松高等裁判所も昭和四一年三月三〇日、上告を棄却し、控訴人敗訴の判決が確定した。その後、控訴人は、高松高等裁判所に対し再審の申立てをしたが、右申立ても昭和四一年八月五日に却下された。

なお、以上の訴訟は、控訴人が、弁護士を訴訟代理人として選任しないで遂行した。

(四)  その後、丸山報告等を契機として徳島県下においても守る会が結成され、控訴人もこれに参加した。

また、控訴人は、昭和四八年には、守る会から訴訟提起を呼び掛けられ、その結果、大阪民訴が、提起された同年四月一〇日当時高松民訴の原告となることが内定していた。当時の控訴人の居住する地域の新聞は、「萩原さんは砒素中毒症で亡くなった被災児の母親で、事件当時赤ん坊と一緒にミルクを飲み、その後遺症で寝たり起きたりの生活……。亡くなった被災児の親が、第一次訴訟で原告になった例はあるが、本人自身の後遺症で原告になるのは例がない。」と報じている。そして、控訴人は、同年九月二四日、徳島市内で行われた高松訴訟の弁護団との打合せ会に出席した。しかし、控訴人は、その後に提起された高松民訴の原告団から外された。その理由については、控訴人は、原審における本人尋問で、第二次の訴訟にまわされたと供述しているが、必ずしも明らかではない。

(五)  ひかり協会設立後、控訴人は、昭和五〇年三月八日に同協会から本件ミルクの飲用認定を受けた。そして、その後、同協会から治療費の支払を受けたほか、美鈴の遺族として義明に一か月四万五〇〇〇円(後に金五万円に増額された。)の遺族援助金が支払われている。

しかし、右の補償だけでは充分ではないとして、昭和五一年一〇月一九日、被控訴人森永に対し、損害賠償金の支払を催告した上、昭和五二年三月九日、被控訴人らを被告として本訴を提起した。

第三  被控訴人らに対する請求について

一1  消滅時効の成否について

控訴人は、被控訴人森永に対し、食品製造業社として商品の安全性を確保すべき注意義務違反及び本件ミルクに砒素を混入せしめた過失による損害賠償を請求し、同国に対し、毒物、劇物取締上又は食品添加物取締上の過失による損害賠償を請求するので、以下、先ず右各損害賠償請求権の消滅時効の成否について検討する。

(一)(1) 被控訴人らは、第一次的主張として、控訴人の蒙った損害のうち、控訴人にかかる部分については、砒素中毒症であると診断された昭和三〇年一〇月末日を、また、美鈴にかかる部分については、同人が死亡した昭和三二年三月一〇日を、それぞれ、短期消滅時効の起算点とすべきであると主張する。

ところで、不法行為による損害賠償請求権の消滅時効について、民法七二四条前段は、「不法行為ニ因ル損害賠償ノ請求権ハ被害者又ハ其法定代理人カ損害及ヒ加害者ヲ知リタル時ヨリ三年間之ヲ行ハサルトキハ時効ニ因リテ消滅ス」と規定し(国家賠償法一条に基づく国又は公共団体に対する損害賠償請求権の消滅時効についても、同法四条により、民法七二四条前段が適用される。)、右の「加害者ヲ知ル」とは、損害賠償義務者を認識することであり、また、「損害ヲ知ル」とは、加害者の違法な加害行為、損害の発生及び加害行為と損害との因果関係を認識することであると解される。

そして、被害者が賠償義務者に対し、賠償請求権を行使するには、損害賠償義務者、その違法な加害行為、損害の発生及び加害行為と損害との因果関係を認識した上でなすのが通常であるから、被害者が損害賠償請求権を行使し、又は、行使し得る時が消滅時効の起算点となるものというべきである(したがって、被害者が前記不法行為の要件事実について、単に憶測するだけでは、その時点が、消滅時効の起算点となるものではない。)。

(2) 本件について、これをみるに、美鈴が、昭和三〇年九月一四日に、控訴人は同年一〇月末日ころに、徳大病院において、いずれも砒素中毒症と診断され、美鈴が、昭和三二年三月一〇日死亡したことは、当事者間に争いがない。

そして、本件砒素中毒症が発表された当時の被控訴人森永の対応は、前記第二1に認定のとおりであるところ、《証拠省略》によれば、控訴人は、控訴人が砒素中毒症であると診断された当時、加害者である被控訴人森永の加害行為、控訴人が砒素中毒症に罹患したことによる控訴人の損害の発生及び加害行為と右損害との因果関係について、また、美鈴死亡当時、加害者である同被控訴人の加害行為、美鈴が砒素中毒症に罹患し、これにより死亡したことによる近親者としての損害の発生、及び加害行為と右損害との因果関係について、何らかの認識を有していたことが認められないわけではないが、その内容程度については、これを明らかにする証拠はない(なお、美鈴及び控訴人は、一斉検診の結果、昭和三〇年一二月一五日異常なしと判定され、美鈴の死亡は砒素中毒症によるものと診断されていないことは、前記第二6に認定のとおりである。)。

したがって、控訴人は、同被控訴人の主張する右各時点においては、控訴人の主張する同被控訴人の不法行為について、損害賠償請求権を行使し得たとは認められないから、同被控訴人の右主張は失当である。

次に、本件砒素中毒症が発表された当時の被控訴人国の対応は、前記第二1に認定のとおりであり、当時同被控訴人が加害者であるとの報道は一切なく、その責任を追及する被害者の動きも、全くなかったことは前記第二3に認定のとおりである。そして、《証拠省略》によると、控訴人は、控訴人が砒素中毒症と診断された当時及び美鈴が死亡した当時、控訴人の主張するような同被控訴人の毒物劇物取締及び食品添加物の取締にあたる公務員の違法行為について、何ら認識していなかったことが認められる。

したがって、同被控訴人の右主張は失当である。

(二) 被控訴人森永は、第二次的主張として、控訴人が前訴を提起した昭和三九年四月四日を消滅時効の起算点とすべきであると主張する。

前記のとおり、美鈴が、昭和三〇年九月一四日に、控訴人は、同年一〇月末ころに、徳大病院において、いずれも砒素中毒症と診断され、美鈴が昭和三二年三月一〇日死亡したことは、当事者間に争いがない。

そして、控訴人が、同被控訴人主張の日に、同被控訴人を被告として、同被控訴人の従業員が、飲用した者が砒素中毒症に罹患するような毒物を混入したミルクを製造販売したとの不法行為により、これを飲用した控訴人が扶養している美鈴および控訴人がいずれも砒素中毒症に罹患し、かつ美鈴は砒素中毒症により死亡し、控訴人は未だ治癒していないとして、同被控訴人が治療費の支払を打ち切った日以後の右両名の治療代、薬代金一〇万円の損害賠償を求め、徳島池田簡易裁判所に損害賠償請求の訴え(前訴)を提起したこと、同裁判所が控訴人の請求を棄却し、控訴人が控訴したこと、控訴審である徳島地方裁判所が控訴を棄却し、控訴人が更に上告したが、上告審である高松高等裁判所は上告を棄却し、これによって、前訴の裁判は確定したが、控訴人は、その後も同裁判所に再審を申し立て、右申立てが却下されたことは、前記第二6に認定のとおりである。また、控訴人は、原審における本人尋問において、「美鈴の死亡と控訴人の症状は、被控訴人森永の行為によるものと確信していた。」旨供述している。

右の各事実を総合すると、控訴人は、被控訴人森永に対し、訴えの提起という権利行使の手段としては、最も強力であり、かつ、明確な手段を行使し、しかも上告審まで争い、更に、再審の申立てまでしているのであり、右訴訟は、控訴人主張の同被控訴人の食品製造業者の責任に基づく損害賠償を求めたものではないけれども、同被控訴人が食品製造業者であることは公知の事実であって、食品製造業者としての同被控訴人が前訴の訴訟内容の不法行為に及ぶことは、当然食品製造業者としての控訴人主張の不法行為が肯定される関係にあることからすると、前訴提起当時、控訴人主張の各不法行為について、損害及び加害者を知ったものと認められる。

控訴人は、控訴人が前訴提起当時、美鈴及び、控訴人は、いずれも一斉検診の結果、異常なしと判定され、また、刑事事件で無罪の判決が言い渡されるなど、損害の発生及び被控訴人森永の加害行為について、いずれも、公的機関によって否定されていたのであるから、控訴人は、その損害についての主観的認識は単なる疑い又は推測に過ぎず、損害及び加害者を知ったというためには、丸山報告によって砒素中毒症についての医学的解明がなされた後、被控訴人森永の本件ミルクの製造過程における過失が明らかとなった刑事事件の有罪判決言渡時である昭和四八年一一月二八日まで、損害及び加害者を知ったとはいえないと主張する。

そして、美鈴及び控訴人が砒素中毒症であると診断された後の一斉検診の結果、ともに異常なしと判定されたことは前記第二6に認定のとおりであり、客観的資料が乏しく、前訴における訴訟の遂行上少なからぬ障害があったことは否定できないところであるが、前記第二6に認定のとおり、控訴人及び美鈴はともに、徳大病院において、砒素中毒症と認定され、美鈴は、その後二年足らずの間に死亡したものであり、控訴人もその後、身体が不調で、医師の治療を受けるなど、前訴提起当時客観的資料が全く存在しなかったわけではない。そして民法七二四条前段にいう「損害ヲ知リタルキト」とは、訴訟において、勝訴を確信し得るだけの十分な資料に裏付けられた認識を要するものではないと解するのが相当である。また、刑事事件において無罪の言渡がなされたとしても(右判決は、前記第二4に認定のとおり、後に控訴審で破棄された。)、その判断が前訴の係属する裁判所を当然拘束するものではないから、控訴人の右主張は失当である。

したがって控訴人の被控訴人森永に対する前記損害賠償請求権は、控訴人が前訴を提起した昭和三九年四月四日から三年後の昭和四二年四月四日の経過によって、時効により消滅したというべきである。

(三) 被控訴人国は、第二次的主張として、大阪民訴が提起された昭和四八年四月一〇日又は、遅くとも、控訴人が、高松民訴の弁護団との打合せ会に出席した同年九月二四日を消滅時効の起算点とすべきである旨主張する。

そこで検討するに、丸山報告後の昭和四四年一一月三〇日、本件砒素中毒症の被害者らの全国組織である守る会が結成され、控訴人もその会員となったが、以後、守る会は、被控訴人森永に対し、被害者救済措置を要求して、活発な活動を始めたほか、被控訴人国に対しても、本件砒素中毒症の責任を追及し始めたこと、昭和四七年八月二〇日守る会は、被控訴人らに法的責任(法律上の責任)があることを前提とする恒久対策案を発表したが、被控訴人森永との間で意見の対立が続き、同年一二月三日、局面を打開して恒久対策案にもられた要求を実現するため、守る会は、被控訴人らに対し、損害賠償請求訴訟を提起することを決め、昭和四八年四月一〇日、第一次第一波訴訟として、大阪地方裁判所に対し、守る会会員(その中には死亡した被災児の遺族も含まれていた。)が原告となり、被控訴人らを被告として損害賠償請求訴訟(大阪民訴)を提起したこと、右訴訟では、被控訴人国に対し、本件と同様、同被控訴人の毒物、劇物取締上または食品添加物取締上の責任に基づく損害賠償等を請求していたこと、これに先立ち、守る会及び守る会の弁護団は、第一次第一波訴訟である大阪民訴に続いて、同第二波訴訟(後の岡山民訴)同第三波訴訟(後の高松民訴)を予定し、これらの訴訟が、被控訴人らの法的責任(法律上の責任)を明らかにして恒久対策案の実現を目的とするものであり、守る会全体の代表訴訟の形態をとることを決めていたこと、控訴人は大阪民訴提起当時、予定されていた高松民訴の原告の一人となることが内定し、同年九月二四日に行われた弁護団との打合せ会に出席したことは、前記第二4、6に認定のとおりである。

そうすると、控訴人は、大阪民訴の訴提起の目的を十分認識し、同じ目的で提起される予定の高松民訴の弁護団との打合せ会に出席したことは、高松民訴に原告として参加する意思を有していたことによるものと認められ、訴えの提起という権利行使の手段としては最も強力であり、かつ明確な手段を行使する意思を有し、その準備をしていたのであるから、控訴人は、大阪民訴提起当時、被控訴人国の公務員が毒物劇物取締及び食品添加物の取締に当たる公務員の違法行為について損害及び加害者を知ったものということができる。

したがって、控訴人の、被控訴人国に対する前記損害賠償請求権は、大阪民訴が提起された昭和四八年四月一〇日から三年後の昭和五一年四月一〇日の経過によって、時効により消滅したというべきである。

2  被控訴人らの被害者圧殺放置責任の成否について

控訴人は、被控訴人らには、被害者圧殺放置責任があり、被控訴人らに対し、右責任に基づく損害賠償義務があると主張する。そして、控訴人の主張するところによると、被控訴人森永については、前記同被控訴人の食品製造業者としての過失及び本件ミルクに砒素を混入せしめた違法な加害行為のほか、被害者を圧殺放置した違法な加害行為をも主張し、被控訴人国については、同被控訴人の前記毒物劇物取締上又は食品添加物取締上の過失による違法な加害行為のほか、被害者を圧殺放置した違法な加害行為をも主張しているところ、仮に、被控訴人らの右各圧殺放置行為がこれに先行する各違法な加害行為とは別個の違法な加害行為として主張するものであるとしても、前記第二1ないし3に認定したところによれば、西沢委員会の認定基準等及びその後の一斉検診の結果、本件砒素中毒症の被害者らが治癒ないし異常なしと判定されて以後は被控訴人森永から治療費の支払が打切られ、また、五人委員会の意見書に従い被災者同盟、全国協議会と被控訴人森永間に被害者らに対する補償額等が合意され、同被控訴人が、右補償金を支払うことによって、被害者らと被控訴人森永との間の紛争は一応決着をみたのであるが、右、西沢委員会の診断基準等や五人委員会の意見書は、被控訴人森永にとっては第三者的な医師や学識経験者らによって作成されたものであり、しかも当時としては最も権威のある判断と考えられていたし、被控訴人森永は被災者同盟、全国協議会との前記合意(右合意事項のうち被災者に対する補償金額は五人委員会の意見書に従ったものであるが、その金額が当時としては、著しく低額であったわけではない。)に基いて補償金を支払ったものである。しかも、被控訴人森永が西沢委員会の診断基準等の作成や五人委員会の意見書の作成に不当に介入したと認めるに足りる証拠はない。また、前記第二4ないし6に認定のとおり、三者会談における確認書の調印により、被控訴人森永は、守る会の恒久対策案を尊重し、企業の責任を全面的に認め、被害者救済のために一切の義務を負担することを合意したのであるが、右確認書に基づき、恒久対策案の実施主体として設立されたひかり協会の寄付行為には、死亡者及び成人被害者に対する補償等について、その定めがなかったけれども、それは守る会の当時の活動方針が、被災児とその家族に対する救済事業に、重点がおかれていたことによるものであって、ひとりひかり協会の責任に帰するのは相当でない。しかも、同協会は、その後、守る会の要望をいれて、死亡した被害者の遺族に対する生活保障等の事業を、その事業内容に加え、その後は、控訴人も現在まで、ひかり協会から遺族援助金(月金四万五〇〇〇円、後に金五万円に増額された。)の支給を受けており、同協会がこれらの問題に真剣に取り組んでいないとは断定できないし、いわんや被控訴人森永が、これをかくれみのにして、責任を回避しているとは、とうてい認め難い(なお、前記第二4に認定したとおり、ひかり協会の費用は無制限に被控訴人森永が負担するが、その理事は、学識経験者や守る会の幹部らによって構成され、被控訴人森永はこれに加わっていない。)。

他方、本件砒素中毒症発生後の被控訴人国の対応については、前記第二1に認定のとおりであり、西沢委員会の診断基準等の作成、その後の一斉検診の実施については前記第二2に認定のとおりであって、前記のとおり、西沢委員会の診断基準等は当時の医学界における最高の権威のある判断とされていたのであり、これによって行われた一斉検診が、当時として、不完全な内容のものであったということはできないし、その結果、被害者が治癒ないし異常なしと判定されたことから、同被控訴人が、その後、被害者の治療について積極的な指導をしなかったからといって、事態を放置して被害を拡大させた責任があるとは、にわかに認め難い。また、前記第二4、5に認定したところによれば、同被控訴人は、三者会談における確認書の調印によって、恒久対策案実現のため、積極的に援助すること、救済対策委員会が行政上の措置を依頼したときはこれに協力する旨合意したのにすぎず、ひかり協会設立後、同被控訴人が右の援助、協力を拒否して被害者を放置した事実を認めるに足りる証拠はない。

したがって、控訴人主張の被控訴人らが被害者を圧殺放置したとの事実はいずれも認められないから、控訴人の被控訴人らに対する右各主張は失当である。

二  控訴人の再抗弁について

1  控訴人は、被控訴人らが、確認書に調印したこと、右確認書に基づいて、ひかり協会が設立されたこと及び、同協会の控訴人に対する遺族援助金の支払の各事実は、いずれも債務承認というべきであり、これによって、消滅時効は中断し、又は、時効援用権の喪失事由(時効利益の放棄と解せられる。)にあたる旨主張する。

そして、被控訴人らと守る会との三者会談において、昭和四八年一二月二三日、確認書が調印されたこと、右確認書は、その第一項において「森永は砒素ミルク中毒事件について、企業の責任を全面的に認め、心から謝罪するとともに、今後、被害者救済のために一切の義務を負担することを確約する。」旨、その第二項において、「森永は被害者の対策について、守る会の提唱する恒久対策案を尊重し、すべての対策について、同案に基づいて設置される救済対策委員会の判断並びに決定に従うことを確約する。」旨、更に、第四項において、「厚生省は、被害者対策について、守る会の提唱する恒久対策案実現のために積極的に援助し、かつ、救済対策委員会が行政上の措置を依頼した時は、これに協力する。」旨、それぞれ定められていること、ひかり協会が設立され、同協会が控訴人に対し、昭和五二年四月以降毎月金四万五〇〇〇円(ただし前記第二6に認定のとおり、その後金五万円に増額された。)の遺族援助金を支払っていることは、当事者間に争いがない。

そして、恒久対策案には、被控訴人らに法的責任(法律上の責任)がある旨明記した上、被害者救済事業を行うため、森永ミルク中毒被害者救済対策委員会(以下「救済対策委員会」という。)を置き、同委員会が、被控訴人森永の費用負担のもとに、被害者に対する救済事業を行うこととし、その事業の中には、死亡者や生存者の過去の損害に対する補償も含まれていたこと、ひかり協会は、昭和四九年四月二五日、前記確認書に基づいて、被害者救済事業を行う事業主体として設立され、その主たる事業として、被害児の自立のための援助による救済を行うほか、死亡者の遺族に対する生活保障等の事業も行い、控訴人に対し、前記のとおり、遺族援助金を支払っていることは、前記第二4、5に認定のとおりである。

しかしながら、他方において、被控訴人国はもとより、同森永も、確認書の調印に至るまで、終始法的責任(法律上の責任)を正面からは否定する態度をとってきたし(このことは、大阪民訴の審理においても同様であった。)、しかも、当時、個別的因果関係の点に関する限り、医学界においても、必ずしも見解が統一されていたわけではなかったこと(《証拠省略》によれば、大阪民訴の原告弁護団も、個別的因果関係の立証が必ずしも容易でないことを認識していたことが認められる。)、そして、守る会も、被控訴人らの法的責任(法律上の責任)を追及するという姿勢は崩していなかったものの、被控訴人森永に対して最も重点的に要求していたのは、現に被害に苦しんでいる者に対する恒久的な救済措置であって、金銭賠償ではなく、被控訴人国に対しては、同森永が右救済措置を行うのについて、側面からこれを援助することを期待していたこと、ひかり協会の事業内容としても、当時成人を迎えようとしていた被害児とその家族に対する救済事業がほとんどであり、死亡者に対する補償や過去の損害に対する補償は事業内容としては明記されていなかったこと、同協会設立後の昭和五一年五月には、単独で訴えを提起した遺族が被控訴人森永との間で和解したが、守る会は、右遺族が、守る会の統制を乱したとして除名決議をするなど、死亡者の補償問題についてひかり協会の事業のあり方に不満を抱き、改めて損害賠償請求訴訟を提起することを提案する動きに対し、ひかり協会も、守る会も、ともに反発し、そのような行動はひかり協会設立の趣旨に反するとしていたことは前記第二5に認定のとおりである。

右の各事実と前記争いのない事実を総合すれば、被控訴人森永としては、同被控訴人に法的責任(法律上の責任)があるか否かの点については、これを明確にすることを避けつつ、被害者に対する救済措置については、守る会の恒久対策案を尊重して、右対策案に定めた救済措置を極力実行し、被控訴人国としては、被控訴人森永の行う救済措置を側面から援助することによって、問題を解決することとし、守る会の側でも、恒久対策案が、被控訴人らに法的責任(法律上の責任)があることを前提として立案されているとはいえ、恒久対策案に定められた被害者救済措置がそのとおり実行されるという結果が得られる以上、被控訴人国についてはもとより、同森永についても、あえて、法的責任(法律上の責任)があるか否かの点について、明確にされないままであっても、十分の成果が期待できることから、確認書において、被控訴人国の責任の内容についてはこれを明示せず、同森永の責任の内容については、「企業責任」を認めるという表現にとどめることとして、確認書が調印されたものと認められる。そして、このことは、大阪民訴の第一五回口頭弁論期日において、原告側は、被告森永が法的責任(法律上の責任)について、明確な釈明もしないまま(前掲原審証人伊多波重義も、右の点に対する詰めは、十分でなかった旨証言している。)、その後、訴えを取下げるという方法によって、右訴訟を終結させたこと(第二波訴訟の岡山民訴及び第三波訴訟の高松民訴も、大阪民訴同様訴えの取下によって、終了した。)にも反映していると認められる。

そうだとすると、右確認書によって設立されたひかり協会が被控訴人らに法的責任(法律上の責任)があることに基づいて救済事業を行うものであると解することは困難であり、前記のとおり、控訴人が同協会から遺族援助金の支払を受けているのも、ひかり協会の事業として行われている以上、右支払が被控訴人らに法的責任(法律上の責任)があることを前提としたものであるということはできない。

そうすると、控訴人の主張する前記各事実は、被控訴人森永については時効の利益を放棄したものであり、同国については債務を承認し、又は時効の利益を放棄したものとは、とうてい認め難いから、控訴人の右主張は失当である。

2  次に、控訴人は、被控訴人らは、被害者を圧殺放置したもので、その責任は重大であり、確認書の調印により、全被害者に損害賠償をするかのような態度を示し、時効期間を徒過させたうえ、ひかり協会をして、死亡者補償問題、成人被害者問題を一切切捨て、更に、被控訴人森永は、一部被害者との間で内密のうちに金銭賠償をする等したもので、被控訴人らが、本件において、時効を援用するのは、権利の濫用である旨主張する。

しかし、被控訴人らに、控訴人の主張するような被害者を圧殺放置した行為が認め難いことは、前記一2に判示のとおりである。したがって、控訴人が被控訴人らの被害者を圧殺放置した行為が重大であることを理由に権利の濫用を主張することはその前提を欠き許されない。

また、控訴人は、被控訴人らが確認書調印の際、全被害者に対し、損害賠償をするかのように装って、守る会を欺き、時効期間経過後、ひかり協会が、死亡者補償問題及び成人被害者問題を一切切捨てにした旨主張するが、そのような事実を認定するに足りる証拠はない。かえって、控訴人は、昭和五〇年には、砒素中毒患者であるとの認定を受け、同協会の救済措置の対象とされ、その後、毎月金四万五〇〇〇円(後に金五万円に増額された。)の遺族援助金の支払を受けていることは、前記のとおりである。また、被控訴人森永が、極く一部の被害者に対し、慰謝料を支払ったことは前記第二5に認定のとおりであるが、これは極めて例外的な事例であると解せられるのであって、本件が、大多数の被害者に対しては、損害賠償金の支払に応じながら、少数の加害者に対してのみ、時効を援用して、損害賠償金の支払を拒絶するというような、著しく公平を失すると認められる場合に該当するものでないことは明らかである。

したがって、被控訴人らが本件において、時効を援用したことをもって、権利の濫用ということはできないから、控訴人の右主張は、失当である。

第四  結論

以上の次第で、控訴人の被控訴人らに対する本件各損害賠償請求権は、そのうち、被害者を圧殺放置したことによる被控訴人森永の不法行為及び被控訴人国の公務員の違法行為に基づく各損害賠償請求権については、いずれも、その事実を肯認できないし、その余の被控訴人森永の不法行為及び被控訴人国の公務員の違法行為に基づく各損害賠償請求権は、仮にその事実があるとして、被控訴人ら主張の除斥期間又は二〇年の消滅時効の点について判断するまでもなく、いずれも、三年の時効により消滅したものというべきところ、被控訴人らが、本訴において、右時効を援用したことは、本件記録上明らかである。

そうすると、控訴人の本件請求は、その余の点について判断するまでもなく、すべて理由がないことに帰する(なお、被控訴人森永は、本件訴えは、前訴判決の既判力に抵触する旨主張するが、前訴は、同被控訴人に対し、美鈴及び控訴人が、本件砒素中毒症により蒙った損害のうち、全国一斉検診の結果異常なしと判定され、同被控訴人から支払われていた治療費が打切られてから以後の治療費金一〇万円に限定して請求したものであることは、前記第二6に認定のとおりである。そうすると、前訴判決の既判力は、その余の損害に及ぶものではないから、控訴人が同被控訴人に対し、美鈴及び控訴人が砒素中毒症に罹患し、美鈴が砒素中毒症によって死亡したことにより蒙った損害のうち、慰謝料の支払いを求める本件訴えは、前訴判決の既判力に抵触するものではない。同被控訴人の右主張は失当である。)から、これを棄却すべきである。

よって、控訴人の被控訴人らに対する本件各請求を棄却した原判決は相当で、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき、民訴法九五条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 柳澤千昭 裁判官 福家寛 市村陽典)

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